修正主義

今日では修正主義という言葉はまったく違った二つの意味を持っています。一つは、19世紀末にドイツ社会民主党においてエドワルト・ベルンシユタインらがマルクス主義の革命理論を現実から遊離していると批判し、議会を通ずる漸進的改革の改良政策に徹するべきであると唱えた修正主義、ベルンシュタイン修正主義です。これはベルシュタインが書いた社会主義の諸前提と社会民主主義の任務と題する著書に代表されます。ベルシュタインは、マルクスが資本論に展開した資本主義の崩壊に関する理論がドイツならびに欧州資本主義の現実に反することを指摘し、プロレタリアアートの革命独裁によって資本主義を打倒して社会主義を実現しようとするとする考え方は、革命権力の全能性を盲信するブランキズムと異ならないと批判しました。革命、独裁を捨てて、斬進主義に切り替えるべきであるというベルンシュタインの主張は、党大会では可決されますが、その後事実上は、ドイツ社民党は修正主義の党となりました。今日の民主社会主義は修正主義の直系だといえます。ベルンシュタインがイギリスに亡命し、イギリスの議会政治と自由主義的民主主義の雰囲気を体験したことが彼の修正主義を生んだ重大な要因だったと考えられます。第二次大戦後、欧州大陸の社会民主党がマルクス主義を捨てて民主社会主義に脱皮したのも、党指導者の多数がイギリスに亡命したことに負うところが大きい。
第二の修正主義は1956年のソ連共産党第20回党大会において、フルシチョフ第一書記がスターリン批判を行い、対外的にはアメリカとの平和共有路線と対内的にはリーベルマン方式など各種の経済改革を含む自由化処置をとった一連の非スターリン化政策を言います。フルシチョフは、自らの立場を修正主義とは呼びませんでしたが、中国共産党から現代修正主義者として激しい批判を受けました。48年にコミンフォルムがユーゴ共産党を迫放したときにも、チトー主義は修王主義であると非難さしました。フルシチョフ失脚後、内務省の復活やチェコの軍事占領およぴスターリンの復権など、スターリン時代への復帰を思わせる事件が起きていますが、ソ連共産覚は墓本的にはフルシチョフの内外政策を継承しています。これはソ連が高度工業国家となり、スターリン的な全体主義的独裁は不可能であることを示すもので、第一の形の修正主義がドイツ資本主義の高度化に伴って現れたのと軌を一にしていました。それは高度に工業化され都市化された社会では、マルクス主義の革命理論は現実から遊離し修正を求められるということでした。

社会主義とお金

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