社会主義とお金

ロシア革命後、世界の社会主義運動が第二インターと第三インター、つまりコミンテルンとに分裂して以来、共産党と社会民主主義政党は対立してきましたが、特定目的のための共同行動も時に応じてなされてきました。特にヨーロッパでは、第一次大戦後の混乱が収まり革命の見透しが後追してくるとコミンテルンは、ヨーロッパの各共産党に対し社会民主主義政党との統一戦線の戦術を指令しました。1922年1月1日のコミンテルン執行委員会及び赤色労働組合インターナショナルの統一戦線に関する宣言は、プロレタリアートに支持される政党が、プロレタリアートの当面の緊急要求のために共同闘争を敢行する熱意をもっている限り統一戦線の結成が要求されることを決議しました。しかし同時にその宣言が第二、第二半、アムステルダムの各インターナショナルの公約はすぺて紙屑に化した云々と述べているように、社会民主主義系統の政党及び組合いの指導者を大衆から浮びあがらせ、その組織を攪乱することを目的とした統一戦線の呼びかけであったために、社会民主主義者はこれを拒否し、むしろ両者の対立はかえって激化しました。
特に1928年以後はコミンテルンは一方で統一戦線を呼びかけると共に他方で社会民主主義系統の指導者を社会ファシストと悪罵したために、統一戦線は単に共産党の勢力拡大の戦術と受け取られ、面者の溝はますます深まり、ドイツでは結局ナチスに漁夫の利をさらわれることになりました。
ナチスの政権獲得後は、コミンテルンはその戦術を改め、ファシズムに反対するあらゆる勢力を糾合する新しい統一戦線の戦術を打ちだしました。この時は社会民主党及びその系統の労働組合のみならず、ファシズムに反対するブルジョワ民主主義政党にも統一戦線を呼びかけたために、一般に人民戦線と呼ばれました。それが成功したのはランスで、1935年以降、社会党、共産党、社会党の間の人民戦線が結成され、翌年の総選挙で勝利をおさめ、社会党のブルームを首相とする人民戦繰内閣が成立し、共産党は閣外から協力しましたが、その後内部で意見の対立が起き、国内攻策で若干の改革に成功したものの、問もなく下野しました。
第二次大戦直後のヨーロッパでは、大戦中ファシズム打倒のため各国で結成された統一の抵抗運動の延長として、多くの国で統一戦線ないし人民戦線が存続し、フランスやイタリアでは政権に参加したこともありましたが、間もなく東西の冷戦が始まると共に、社会民主主義者と共産主義者との間でも、対立が深刻化し、イタリアを除き統一戦線は崩壊しました。しかし1960年代の中ソ対立激化の結果、ソ連が西側への態度を緩和してくるにつれ、西側の各国共産党も、毛スクワの統制から漸次独立し始め、議会制民主主義路線に接近してきました。その結果、その地政学的状況から早くから共産党と社会民主党の間で統一戦線が結成されていたフィンランド以外の国でも、社会党の弱い若千の地域で社会民主党と共産党との間に歩みよりが見られました。その顕著な例がフランスと南米のチリでした。
フランスでは、1973年の総選挙では社会党と共産党及びその他の左翼諸派が統一連合政府網領を作成して選挙に臨み、その結果は、与党連合には及ばなかったがその合計議席を前回の68年の総選挙の時の87から181に増加させました。しかしフランスの非共産党的社会主義者の中には、なお共産党のかつてのモスクワ追随路線への不信が強く、今後も統一戦線が成功するか否かは明らかではありませんでした。また民主社会主義を主張する社会民主党ないし労働党が強大で共産党が徴力なイギリス、西ドイツその他北欧、中欧諸国では統一戦線は間題になっていませんでした。
チリでは1970年に、共産党、社会党その他の左翼各派の結成した左翼人民連合が大統領選挙で勝ち、南米で初めての統一戦線政府がアジェンデ大統領の下で結成されました。73年の上下両院の総選挙でも、上下両院とも遇半数はとれませんでしたが、統一戦線政府を継続することに成功しました。しかし国内では、お金の混乱やインフレが激しく、庶民の家計が苦しくなり、73年9月、軍部クーデクーによりアジェンデ政府は倒れました。
このような世界的風潮に刺激されて、日本でも社会党と共産党との間に統一戦線の話が台頭してきました。もっとも地方自冶体の首長選挙では、既に早くから社会党共産党、時としては他の革新政党の共同推薦の革新首長が選挙に勝っていわゆる革新自治体政府を作っていましたが、国政レベルでの統一戦線は、国政全般についての共通の政権構想を前提とするため、容易には具体化しそうもありませんでした。共産党は社会党との間の統一戦線を強調するのに対し、社会党は全野党の共同闘争を主張し、両者の考えは一致していませんでした。特に日本の場合では、社会党はその内部に各種の思想的派閥があり、戦前からの労農派の伝統もあって共産党への対抗意識が強いため、統一戦線の結成は容易ではありませんでした。統一戦線はいわば過渡段階における戦術であり、終局的にどのような社会主義社会を作るかについて合意が成立しない限り、仮に成立しても永続することは難しいど思われます。

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